hamさんのひとり言。

昔の話、今の話、自由に綴る波乱万丈の我が人生。

中山仙境
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中山仙境
国東半島の霊場、中山仙境の無明橋、、

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日本鉱業佐賀関精錬所佐賀関の旧日本鉱業佐賀関精錬所の専用岸壁に3晩停泊し4日目の早朝06:30出港スタンバイの船内放送があった。訪船していた家族は下船し代理店がクリアランス(出港許可書)を持ってきて本船サイドには2隻のタグボートも待期している。タラップが揚げられホーサー(係船ロープ)が外されタグボートがエンジンの唸りをあげて本船を岸壁から引き離している、本船のエンジンも動き始めた、、、間もなく2隻のタグボートも汽笛を鳴らして本船を離れて行く、あの名物煙突とも1か月のお別れだなー、(写真)豊予海峡を通り間もなく水の子島灯台が見えてきた、いよいよ日本ともお別れだ、
停泊中は夜になると連日タクシーを飛ばして飲みに出かけ連日の午前様、航海中の暇なときに予定しているボトルシップを作る材料を買い込んだり、散髪に行ったり、航海中の酒のおつまみの買い込みなど結構忙しかったね、、夜中の零時に当直が終わるとさすがに疲れと寝不足で風呂に入りビールを1缶飲み干してベッドに入りバタンキュー、、、😁😁
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ジゴロック
2~3日前に管理職から、〇〇さん、土曜日なんですが休日出勤してくれませんかねー、車が足りないんです!との事。軽い気持ちで、あー良いですよ、、だいぶ前より、ポスター、チラシ、テレビ、ラジオなどで「ジゴロック」と言いう言葉は見たり聞いたりするんだが全く興味がない、「ジゴロック」って何だい??ご当地大分で初めての大型野外音楽フェスティバル、ジゴロック2024~大分”地獄極楽”ROCK FESTIVAL が3月16,17日の2日間大分スポーツ公園のレゾネックドームを中心に開催されるとの事で初めてチラシなどを見てみると爺でも知っている有名なアーチストなど多数が出席するようだ。仕事で関係者を迎えに行ったり、夕方ホテルに配車になり中年の二人の女性が乗車された、行き先はもちろんスポーツ公園だ、お客さんはどちらからおみえになったんですか?尋ねると、私は福岡ですが彼女は岐阜からです、大好きなアーチストが来るから!とのこと、、明日も盛り上がる事だろう、しかし明日は天気は心配だが、、
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両合棚田
山の多いご当地大分県は自然に恵まれ素晴らしい景観が各地でみられる、、、両合棚田両合棚田
































大分県宇佐市院内町余谷両合地区(あまりだにりょうあいちく)は1999年に日本の棚田百選に選定されました。 院内町を流れる駅館川(やっかんがわ)水系上流域の滝貞川は同水系の小平川(こびらがわ)に交わる、この橋の東側が滝貞集落、西側が小平集落でこの二つの集落を流れるそれぞれの川が一つに交わることから「両合」と名付けられたと思われる。 その合流地点から200mほど下流に両合橋(りょうあいばし)と言う大正時代に造られた石造アーチ橋(写真下)があり、平成10年1月16日 国登録有形文化財に指定された。
この両集落の急斜面に広がるのが「両合棚田」である(写真上)。 両集落ともに小集落で、高齢化や人口減少が進んでいるが、昔ながらの掛け干しによる稲作を続け、地域の景観を守っている。 耕作面積は1999年に日本の棚田百選に選定された時点で約7ヘクタール、147枚の石積の棚田があった。 2020年6月時点では4ヘクタール、約120枚である。 両合棚田の起源は室町時代に耕作が始まり江戸時代には現状の石積みが築かれ現在の形になったとされる。
両合川橋
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新潟にいた時に仕事(タクシードライバー)でお客様を観光地に案内し「郷土には多くの有名な史跡があるなー」と気づき一冊の本に纏めたが、その中の一部をご紹介したいと思います。
松尾芭蕉句碑 (国分寺)
上越市五智の国分寺境内にある句碑で「薬園の草が秋で美しいが、どれを枕としてここに旅寝しようかと、主人への挨拶をこめて詠んだもの」高田の医師細川春庵を訪れた時の作句である。春庵は薬草を栽培し、庭の泉水その他美しい庭だったと言われている。この句碑は明和7年(1770)に建てられたものである(写真上)

  薬蘭にいづれの花を草枕

 

松尾芭蕉句碑 (船見公園)

上越市中央にある船見公園向かい、琴平神社境内の芭蕉の句碑で「明夜は七夕である、一年に一度の牽牛、織女の出会いが明夜だと思うと、今見上げている六日の夜空も心なしか甘さ、妖しさが感じられるようだ。」という句意と思われる、文月は旧暦7月、元禄2年 1689年七夕の前夜直江津での作句である。

文化年間、地元の俳人福永里方らが建てた句碑であるが、幾度かの大火で焼け、慶応年間に福永珍玩らが再建したものである(写真)

文月や六日も常の夜には似ず


松尾芭蕉句碑 (本敬寺)

上越市黒井にある本敬寺(ほんきょうじ)境内にある句碑で、「あすならふ」は翌檜(あすなろ)でヒノキ科の常緑高木、葉が檜に似ているところから「明日は檜になる」と言う意味でこの名が付けられており、「花が咲き盛っているあたりに、あすは檜になろうと思いつつ立って、年を経て行く翌檜の姿がさびしい」と言う句意と思われる。この句は笈日記に掲載されており、特に黒井には関係がないが、奥の細道行脚の際、松尾芭蕉が黒井宿の旅籠屋、伝兵衛で休んだのに因み、寛政の頃、地元の俳人、熊倉平十郎幸亭らによって建てられた句碑と言われている

さびしさや

      花のあたりのあすならふ

松尾芭蕉句碑 (北城神明宮)

上越市北城町1丁目にある北城神明宮境内にある、芭蕉が直江津と高田の句会で詠んだ句二点を刻した昭和60年6月に建てられた句碑である。

 薬蘭(やくらん)にいづれの花を草枕

 文月や六日も常の夜には似ず

芭蕉句碑 金谷さん

上越市の金谷山、割烹 対米館 の手前(東側)にある芭蕉の句碑である。この句碑は文化3年(1806)榊原藩士、安田縫之助らによって金谷山、薬師堂前に建てられたが昭和初期に現在地に移転された。

 薬蘭(やくらん)にいづれの花をくさ枕

松尾芭蕉句碑 (正輪寺)
上越市南本町3丁目にある正輪寺境内(瑞泉寺、いずみ幼稚園の前を東の方に細い路地を入ったところ)にある芭蕉の句碑である。芭蕉が武士達の花見を通りすがりに見て詠んだものと思われる。「景清」とは平家の特大将で「悪七兵衛景清」と言われた人並み外れた剛勇の士のことであり、「悪七兵衛と呼ばれた景清のような強い武士も、花見の席ではただの七兵衛になって花見を楽しんでいるようだ」と言う句意であろう。宝暦13年(1763)地元南本町の俳人で、芭蕉の孫弟子と言われる南嶺庵らによって建てられた句碑である(写真上)

景清も花見の座には七兵衛

             

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ラデッキー行進曲
作曲:J,シュトラウスⅠ世


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タクシードライバー3月に入り予定では忙しい月になると想像していたんだが今のところ大したことはない。まー忙しくなるのは後半のこれからだろう、、本来であれば火曜日は結構と動くんだが大したことはない、まー良い日もあれば悪い日もあるさー、、遅い昼食を食べて市内の中心部を流していると3時過ぎ、配車アプリのGo,が鳴った。見ると駅の南口のようだ、直ぐにUターンして2~3分で駅の南口に着けると大きなキャリーカバンを引いた3~4人の中年の男女が手を振っている、このお客さんだな?近づき車から降りると一人の女性がスマホの配車アプリの画面を提示してきた、4人の中年の男女だが中国語を話している、えー中国の人かね?大きなカバン3個をトランクに積み込み行き先を尋ねると日本語は全く解らない様子、、、差し出されたスマホの画面を見ると湯布院の高級旅館のようだ、カーナビで電話番号で検索するとばっちりヒットし、高速道で湯布院へ向かった。おそらく飛行機で中国から福岡に着き電車で大分駅に着いたんだろうで、、無事に湯布院の目的地に到着し運収も一気に倍増した。帰りは本来であればR210で帰るところだが、久しぶりに景色を眺めながら九州横断道路で別府経由で戻ってきた。由布岳の近くの草原地帯は野焼きが行われ真っ黒だ、しかーしだ!5月の連休頃になれば草原一帯が綺麗な緑に映え変わるだろう、、、
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kk122 津波新潟県出身のhamさんだ、新潟地震、中越地震、中越沖地震、長野県北部地震などなど大きな地震は何回となく経験してきた。しかーしだ! 13年前に発生した東北大震災、東北沖の大地震に端をはっした大津波、真っ黒な濁流が次々に家や車、人をのみ込んでいく映像がテレビから流れた。あまりのひどさに呆然とした、毎年3月11日になると思い出す。今年は新年早々の元旦に能登半島地震も発生して多くの犠牲者がでて多くの家屋が倒壊し、今なお地域により断水などが続いている地域が多くあり心よりお見舞い申し上げ、今日も13年前のブログをみて当時を思い出す。

u13989399タクシー仕事で朝方の4時過ぎに家に帰り寝ていると、寝ている顔を足で踏みつけられ目が覚める、1歳半の孫が遊びに来たようで、爺ちゃん、起きろ!嫌でも起こされる、何だよ、未だ11時じゃねーかよー、、朝昼兼用の食事をして夕方の出勤まで孫たちと炬燵でくつろいでいると、14:46分、ドーン、グラグラグラー、、地震だ!新潟地震、中越地震、中越沖地震、などなど大きな地震は結構と経験しているんだが震度5強の地震だ、暫くするとテレビの放送が地震のニュースに切り替わり大津波が押し寄せると報じている、、間もなくテレビの画面に真っ黒な濁流が押し寄せ、家を押しつぶし、船がひっくり返り押し流され、車が流され、この世の光景とは思えない映像が流れている、何これー、、どうーなってんのー、、、東北沖で大地震があり、大津波が押し寄せているとの事だ。勤務先の運行管理者から電話が入り、地震で大変なんだ、直ぐに出てきてくれ!支度をして会社に行くと管理者が、おー、準備が出来たら直ぐに出庫してくれ!との事。駅前の待機場所にはタクシーは1台もいない、JRが全線止まりバスも止まっているようだ、駅前には何人かのタクシー待ちのお客さんが、駅に着けると二人の女性が乗車された、すいません、長野までお願いします!との事だ、富山に受験で行ったんだが直江津で電車が止まり帰れないとの事で長野へ、、タクシーは長野県、新潟方面、などなど全て長距離で出払ったようだな。小雪がちらつく中を上信越自動車道で長野に向かったが車も走っているのは少ない。時々対向してくる車はほとんどが赤色灯を回しサイレンを鳴らした救急車、パトカー、自衛隊の車だ、救援のために東北地方に向かうようだが東北自動車道などは通行止めで上信越自動車道、北陸高速、磐越道経由で被災地に向かうようだ。消防自動車、救急車、パトカー、警察車両など色々な県から向かっているが、異様な光景だったね。長野で空車になり戻ってくると無線で呼んでくる、休む暇もなく走り回りクタクタに疲れたね。翌日からは歓楽街のネオンはほとんど消え、コンビニなどの照明も暗くなり、スーパーなどの大型店の大きな看板照明などは全て消され死んだ街のようだ。原発事故も重なり間もなく東北地方から沢山の避難の人たちが体育館などの公共施設に入られた。中心部から離れた施設に避難してこられた人たちを仕事でお迎えに行ったりしたが気の毒で胸が痛かった、お客さん、料金は結構です、僅かですがお見舞いです、、何人かのお客さんから料金は頂かなかった。涙ぐんでおられるお客さんもおられた、降りる時に、運転手さん、有難う!と深々と頭を下げていた男性、お客さん、どうぞ頑張ってください、、毎年この日になると13年前を思い出しこれから先も忘れることはないだろう、沢山の人が犠牲になられ、未だ2千人を超す人が行方不明だ、、心からご冥福をお祈り申し上げる、、 合掌
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佐賀関丸(小)34日ぶりに日本に帰ってきた、午後2時ころに旧日本鉱業(現JX金属)佐賀関精錬所の専用岸壁に着岸予定だ。いつもは10時過ぎまで寝ているんだが本船では初めての日本入港でさすがに興奮して8時には目が覚め、さっそく着替えてブリッジ(船橋)へ行ってみる。豊後水道に浮かぶ水ノ子島灯台が見えている、日本に帰ってきたなー!左舷には九州の島影が、右舷には四国の島影がうっすらと見えている。昼食を食べて無線室へ今航海最後の当直に、ポールドを覗くと佐賀関精錬所の名物の煙突が見えてきた、銚子無線局/JCS, 長崎無線局/JOS、 大分無線局/JIT、にTRを入れる、「サガノセキマル、NW QTP サガノセキ」各海岸局より、「JKST DE JCS NW NIL TU、」これで出港するまで無線局は閉局だ。本船の横に2隻のタグボートも並走し30分ほどで精錬所の専用岸壁に着岸した、直ぐに代理店、官憲が乗船してきて入港手続きが始まる。1時間ほどで入港手続きが終わると交代する乗組員や家族などが乗船してきたりで船内は目が回る忙しさだ。荷役作業も始まった、本社から送られてきた荷物の整理、代理店から届いた荷物の整理やらで忙しいね、、、夕食を食べてシャワーを浴びて、さー、久しぶりに一杯飲みに行くかね、
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HENNA

HENNA

2014・12・28
別府の国際観光港に中国初の本格クルーズ客船、HENNA(ヘナ) 「海娜号」が入港すると言う事で別府まで行ってきた。今回は1,775人が乗船し、上海から博多、別府両港に寄る6日間の行程のようだ、、

HENNA 「海娜号」
総トン数 :  47,262トン
全長   :     223 メーター
全幅   :      28 メーター
旅客定員 :   1,486 名
乗組員  :     670 名   
 


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