hamさんのひとり言。

昔の話、今の話、自由に綴る波乱万丈の我が人生。

カテゴリ: 豊後の名所史跡


両合棚田
山の多いご当地大分県は自然に恵まれ素晴らしい景観が各地でみられる、、、両合棚田両合棚田
































大分県宇佐市院内町余谷両合地区(あまりだにりょうあいちく)は1999年に日本の棚田百選に選定されました。 院内町を流れる駅館川(やっかんがわ)水系上流域の滝貞川は同水系の小平川(こびらがわ)に交わる、この橋の東側が滝貞集落、西側が小平集落でこの二つの集落を流れるそれぞれの川が一つに交わることから「両合」と名付けられたと思われる。 その合流地点から200mほど下流に両合橋(りょうあいばし)と言う大正時代に造られた石造アーチ橋(写真下)があり、平成10年1月16日 国登録有形文化財に指定された。
この両集落の急斜面に広がるのが「両合棚田」である(写真上)。 両集落ともに小集落で、高齢化や人口減少が進んでいるが、昔ながらの掛け干しによる稲作を続け、地域の景観を守っている。 耕作面積は1999年に日本の棚田百選に選定された時点で約7ヘクタール、147枚の石積の棚田があった。 2020年6月時点では4ヘクタール、約120枚である。 両合棚田の起源は室町時代に耕作が始まり江戸時代には現状の石積みが築かれ現在の形になったとされる。
両合川橋
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入山公廟
滝廉太郎の荒城の月で有名な竹田の岡藩三代藩主、中川久清(隠居後の号が入山である)が家督を相続したのは承応二年(1653)で39歳の時でした、久清は藩政改革を積極的に行い、又万一、異国船が渡来した時に備え軍制の整備にも力を入れ、洋式の火器を採用し密かに訓練を行い、その演習場に大船山鳥居ヶ窪を選んだと言われています。入山公が初めて大船山に登ったのは寛文二年(1662)8月23日と言われており、入山は山麓で休息ののち地元の農夫の背負う人鞍に乗って登山した言われている。入山は大船山をこよなく愛し、自身の墓所を大船山に設けるように遺言を残し、天和元年正月26日67歳で死去した。入山の霊廟は入山公の意に添って大船山の中腹、標高1400mの鳥居ヶ窪を見下ろすこの地に建てられた(写真)。墓石には「従五位下中川氏前城州大守源久清」の碑文が刻まれている。平成9年9月2日に国指定史跡に指定された。墓所には池窪登山口または岳麓寺登山口から登ることが出来る。
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入山公廟
岡藩三代藩主中川久清(入山公)の墓所には久清の六男中川久矩(13歳没)、同じく四女井津姫(3歳没)の墓地がある。
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九鹿猪山 圓通寺
九六位山に登る?時に駐車場先脇の処から天台宗の九六位山 圓通寺へ続く長い石段が続いている(写真)、参道は綺麗に手入れがされているように見受けられる。
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正直なところこちらに来て参道に掲げられている圓通寺縁起を読むまで圓通寺はこれほど歴史のある古刹であることは恥ずかしながら知らなかった。
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ひっそりと静まり返る境内を眺めていると繫栄していた当時が思いうかばれる、、、
九鹿猪山 圓通寺
日羅上人が九六位開山の折に手植えしたと伝えられる大分市指定の銘木のイチョウの大木がある(写真)、樹高23m、幹周8,4m、樹齢約1400年、、横には大分市指定の銘木のかやの木も植えられている。
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正月17日の鬼走祭会には遠近よりの参会者が数万人にも及び無病息災を祈願したと伝えられている、時の人々は一に九鹿猪山、二に霊山、三に神角寺、これを豊後の三大寺と称し、ここ九鹿猪山を最も崇敬したと言われている。(写真左クリックで拡大)
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大分県護国神社

護国神社 招魂齋庭
大分市中心部より数キロ東にこんもりとした松栄山がある。この地からは泉都別府の湯けむり、別府湾越しに国東半島を望み、更には豊後水道の奥に霞む四国の佐多岬までも見渡せる古くからの景勝地である。この山を聖地と定め明治8年(1875)10月18日、大分県ゆかりの勤王の志士たち二十三柱を祀る「招魂社」が「招魂齋庭」の地(写真下)に建立された。
明治18年に拝殿などに増改築が加えられ、その後昭和8年6月に社殿の改築、参道の改修などの拡張整備が行われました。昭和14年4月に内務省令により「招魂社」は「大分県護国神社」に改称されました。昭和18年10月28日、現在の社殿の大造営が完成して(写真上)遷座祭が行われ旧社殿は解体され往時の名残をとどめるものは本殿跡地の礎石のみである。昭和22年に社号を「豊霊宮」と改称しましたが昭和27年9月に再び「大分県護国神社」と元の社号に変わりました。

大分県
明治10年の西南の役の戦士者214柱を埋葬しています、、
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境内には鎮魂の碑(写真上)軍旗の碑(写真下)などの慰霊碑も建立されている、、
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九重 ”夢”吊り大橋
大分県玖珠郡九重町(ここのえまち)にある 九重”夢”大吊橋(ここのえ”ゆめ”おおつりはし)は2006年10月30日に開通した、高さ173m(水面より)、長さ390m、幅1,5mの歩行者専用のつり橋で、日本一高い吊り橋である(写真)。当時は日本一の長さ、高さを誇っていたが長さについては2015年12月14日に開通した箱根西麓の三島大吊橋(400m)に追い抜かれて、長さの日本一は譲ったが高さでは依然として日本一を誇っている。橋からは日本滝百選に選ばれている 振動の滝 を望み、足下に筑後川の源流域を流れる鳴子川渓谷の原生林が広がり、 四季折々に織りなす大自然の変化を望むことが出来、まさに「天空の散歩道」にふさわしい360度の絶景だ、、、
九重”夢”吊り大橋
ゴールデンウイークに4年ぶりに来た孫たちと行ってきたが沢山の観光客で賑わっていた。
1956年7月に地元の商店会の時松又夫さんが「この谷に橋を架ければ、滝も紅葉も綺麗に見えるぞ」と発言したことに端を発している、しかし地元の長老からは「寝ぼけている」「誰が金を出すのか」などと一蹴されたと言われている。しかし1993年にこの話は町の観光振興計画に盛り込まれ、長年の「夢」のような話から橋の名前に”夢”が付けられ 九重”夢”大吊橋 となったとの事だ。
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「空の公園」のシバザクラ
「空の公園」のシバザクラ
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佐伯市蒲江の「仙崎のフジツツジ」、「仙崎の砲台跡」を見物し海岸線を北上して佐伯市米水津(よのうず)の「空の公園」にある「空の展望所」のシバザクラを見に来た。以前にも何回も来ているんだが今回は天気も良く真っ青な海にピンクの1万5千株のシバザクが映える(写真)、展望所は佐伯市蒲江と佐伯市米水津を結ぶ「豊後くろしおライン」沿線にあり標高160メーターの展望台から米水津湾の青い空と海、反対を見れば山々の新緑が見渡せ素晴らしい眺めでうっとりする。暫くは楽しめそうだ、、 
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仙崎砲台跡
仙崎砲台跡仙崎より蒲江
仙崎自然公園の駐車場より岬方面へ遊歩道を10分くらい進むと(少し上りだが整備されているのでスニーカーでも問題ない)仙崎砲台跡(写真上)がある。

仙崎砲台は、佐伯海軍防備隊の前線基地として昭和14年に着工築造された。砲台には砲塔が3基、岬側から第一、第二、第三砲台と呼称した。30cmカノン砲が装備されていたとも言われるが、実見した人の話、残っている砲弾などから、15cmカノン砲、もしくは旧式の15cm臼砲と推測されている。
旧軍部は、日本各地の海峡に砲台を築き、敵潜水艦の侵入に備えた。豊予海峡一帯の砲台は、豊予要塞司令部(陸軍)に属したが、仙崎砲台は唯一旧海軍が保有した特異な砲台となている。岬の突端には、防備衛所があり、水中聴音機で海峡に侵入する敵潜水艦を探知した。  = 案内板より =

写真の砲台跡が3基並んでいる、1基には井戸も残されており、目の前が豊予海峡で素晴らしい景色だが(写真下)80数年前の戦争時が偲ばれる。

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大分県宇佐市安心院町(あじむまち)鳥越、県道50号線から案内板に従い数百メーターほどわき道に入ると深見五重塔(ふかみごじゅうのとう)がある。平安時代から鎌倉時代にかけて大変栄えた定樹山大建寺という由緒あるお寺がありましたが、いつの時代にか廃寺となりました。

大建寺、深見五重塔IMG_6732IMG_6735
















































安心院出身の故糸永貞樹氏が故郷への感謝の念をこめて建立したもので、美しさで定評のある平安時代建立の国宝醍醐寺の五重の塔をモデルにした28メーターの五重の塔です。安心院町出身の故
糸永氏は大建寺跡地にふさわしい仏塔を建立して我が国の古き良き伝統を形として郷土に残したいと思い、昭和58年4月15日にこの五重の塔は完成したそうです。
大建寺、深見五重塔
糸永貞樹氏(写真の銅像)は明治28年生まれの安心院町出身で、18歳で上京し一代でユフ精器株式会社(医療機械の輸入、製造販売)の会社を設立し、年商86億円(2015年8月期)を超える企業となっている。
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耶馬渓「仙の岩}IMG_6727耶馬渓 「仙の岩」




























































宇佐市安心院町(安心院町)鳥越にある国指定の”名勝耶馬渓”内の「仙の岩」(写真)集塊岩で出来た旧耶馬風景の代表的な物として、耶馬渓の競秀峰と並び賞されている。特に剣ヶ岳(けんがだけ)は全耶馬溪随一の大岩柱です。また百メートルの大絶壁や正面の平岩、大中小の屏風岩、大厳寺岩窟などが有り、千年以上も昔より山岳仏教の修行場であった。往時、僧法道仙人がいたので仙の岩と呼ぶようになったと言われている。
                            = 案内板より抜粋 =
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朝倉文雄記念館
「朝倉文夫」恥ずかしながらご当地に来るまでは知らなかった、ご当地に来てからはよく目にしたり耳にしたりする、大分県の偉人ではあるんだろうが、文学者か?芸術家か?政治家か?山登りの行き帰りに豊後大野市の朝地町あたりで「朝倉文夫記念館」の案内板をよく目にした、そのうちに行って見よう、、現豊後大野市朝地町出身の著名な彫刻家だ。
緑豊かな自然の中にひっそりとたたずむ、やすらぎと芸術の里「朝倉文夫記念公園」、美しい自然の中に芸術の理想郷を作りたいと言う朝倉文夫の夢が1991年に現実のものになりました。広大な敷地内には朝倉文夫記念館の他、朝倉文夫記念文化ホール、陶芸小屋、やすらぎ茶屋、また沢山の豊後梅なども植えられ見事だ。「朝倉文夫記念館」(写真)は学生時代から晩年までの文夫の彫刻作品の鑑賞を主体として、ゆかりの品々の展示やビデオ上映を通じ文夫の芸術を総合的に理解できるように構成されている。
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作品を眺めていると、素人で芸術的センスが全くないhamさんでも、ウーン (゜.゜) 、じつに細かい細部まで作品名との繋がりを表現されている。写真下は有名な滝廉太郎だ、、
朝倉文雄記念館














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野外の展示場にもたくさんの作品が展示されている、写真下の招き猫は大分市民では馴染みの作品だ、2019年秋のラグビーワールドカップが大分でも開催され随分と盛り上がったが開催時に市内中心部の交差点の北東側の広場に展示されていた。

朝倉文夫の略歴
明治19年(1883)3月1日 現大分県豊後大野市朝地町に生まれる
明治40年(1907)東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻選科卒業、卒業制作「進化」
明治42年(1909)東京美術学校研究科修了
          
            沢山の作品を制作、賞を受賞

昭和23年(1948)第六回文化勲章受章(大分県第1号)
昭和39年(1964)4月、急性骨髄性白血病にて死去

朝倉文夫記念館
大分県豊後大野市朝地町池田1587-11
📞 0974-72-1300
開館時間:09:00~16:30
休館日 :月曜日 (月曜日が祝祭日または振替休日の場合は翌火曜日)
入館料 :一般 500円 小中高生 200円  
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