hamさんのひとり言。

昔の話、今の話、自由に綴る波乱万丈の我が人生。

2021年01月

経読岳
日曜日の休みは月に一度くらい、今日は日曜日の休日だ。天気は問題なさそうだし、大分県と福岡県の県境に鎮座する大分百山の経読岳(992、6m)に行ってきた。一人でそっと起きてパンとコーヒーで朝食、6時に家を出発した。途中コンビニでオニギリ、水をゲットして東九州自道車道で中津ICへ、県道からR212で耶馬渓に入り途中から県道2号線に入り津民路へ、約10キロ弱で小屋ノ原集落を過ぎて橋を渡り左にカーブするところが古峠、経読岳の登山口だ、家を出て2時間(写真)


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支度をして登山道に入るがしばらくはコンクリートの林道歩きだ、20分ほどで古峠、小屋が岳の分岐点だ(写真)、今回は古峠を経由して経読岳に向かう。

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登山口から約1時間で古峠に着いた(写真)、ここまでは極めて順調に来た。ここから右に行けば昨年登った雁股山方面に行く縦走路だ、こちらは左へ、、

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古峠で一息入れて経読岳に向かうと20分くらいで展望のポイントがある、突き出た岩からは絶景だ、、

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展望ポイントで気を良くして先を進んだが途中でコースを外れてしまった、しかし今回もYAMAPのお陰で元の場所に戻り安堵したが30分以上はロスってしまった。

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ところどころには少しの雪も残り踏み跡も無く滑りやすく閉口したね、、途中より九州自然歩道の看板も整備され解りやすくなる。

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途中鎖場、ロープなど結構やっかいな個所もあるが何とかクリヤーして古峠から休憩を含め2時間もかかったが立派なベンチで小休憩だ(写真)

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休憩後きつい登りを登り林道に出た、林道を横断してまた登りだが登りきると広い尾根に出た、暫くで石像が(写真)、お賽銭をあげてお参り、

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古峠から休憩を含め約3時間、登山口から約4時間、12:00に大分百山 経読岳(992,6m)の頂上に着いた、想像以上に難義したね、、、日曜日で福岡県側からの登山ルートもいくつかあるので内心2~3人くらいに逢うと思ったが今日も貸し切りだ。コンビニで買ってきたオニギリで昼食だ、美味しいねー!風もさすがに冷たい、25分ほどで下山を始めた。

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頂上から暫くで結構と厳しいところがあるので注意だ、30分ほどで犬が岳、小屋ヶ岳の分岐点(写真)に着いた。

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分岐から約15分ほどで小屋ヶ岳との分岐に来た(写真)、途中からよく見えていた三角錐の奇麗な山だが結構きつい登りが予想される、こちらから小屋ヶ岳の反対方向から回り込み古峠へ行く途中で合流し小屋ヶ原集落の登山口にも行けるが、、今回は時間も予想外にかかってしまったし、爺の体力では危険と判断し相ノ原集落の登山口(下山口)に向かった。

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分岐からの登山道はひどく荒れている、正直なところ登山道と言うものではないね、しかし目印が短い間隔であり目印を頼りに進めば迷う事はないが、目印を頼りに山の中を歩く感じだね、雪で枯葉は滑るし、ガレ場があり岩ゴロの個所があり、ケガをするのはほとんどが下山時が多い、そう思っている矢先に滑って尻もちをついた、ズボンが汚れた程度だが、疲れも出てきている、注意をしていたんだがその矢先、今度は足を踏み間違えたのか前にバッチリと倒れた、顔の前に大きな岩が、顎を岩にまともにぶつけたね、、   、頭中がしびれた、こりゃ顎にヒビでも入ったろうなー?、、しかし痛みは直ぐに引いた、しかし顎に傷が、明日になれば腫れるだろうなー、まー今はコロナ渦でマスクをしているんで解らないだろうで、、1時間くらいで林道らしきところに出てきた、ここまで来れば一安心だ。分岐から1時間20分で相の原集落の登山口に着いた(写真)、ここから県道2号線を少し登れば犬が岳登山口がある筈だがここから舗装の緩い下りを約20分で車の置いた小屋の原の登山口に到着した。いやー疲れたね、、、

 経読岳の登山記録は = こちら =

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清峰丸(小)
材木を満載した本船は、アメリカ、ワシントン州のエバレットを予定通りに出港した、今航の日本での揚げ地は愛媛県の新居浜、初めての港だな。
そもそも私が無線と言う物に興味を持ったのはいたって単純だ、小学校5年の理科の時間であった、教材を使い”鉱石ラジオ”を作った、クモの巣状の板にエナメル線を巻き鉱石検波器をつなぎ、イヤホーンで聞く簡単なものだが、私は学年で1番早く作り、私の作ったラジオが1番よく鳴った。K先生にえらく褒められた。たわいも無い事であるが、これが私が無線に興味を持ち、通信士と言う道に進み、その後、通信関係の事業に進んだ基となった。大手工作機械メーカーに就職したが、どうしても通信士と言う仕事が捨てられず退職、そして又進学、資格取得し船舶通信士という仕事に就いた。
shipclk_KEYER 電鍵私が乗船した初めの頃は航路により通信士が3名乗船していたが、大体は2名に1名減員されていた。           
船舶通信士の大きな任務の一つ、

通信技術、通信機器の保守並びに運用、又条約や法規等を習熟した専任の船舶通信士がその聴覚により、国際電気通信条約に定められた一定の時間割で、又その他の時間は機械(警急自動受信機)により、国際遭難周波数である500kHz(電信)を聴守し、自船が遭難した場合はこれにより救助を求め、他船が遭難した場合または他船の遭難を知った場合はこれにより救助を行うなど、付近を航行する船舶による相互救助体制である。しかーしだ!  航行区域によって異なるが、外航船における世界的な海上における遭難安全制度GMDSS(Global Maritime Distress and Safety System)が1999年2月1日に完全導入され、人の聴覚による聴守を廃止して全て機械による聴守を行うものとなった。 船舶職員法の改正、電波法の無線従事者資格の改正、および船舶安全法改正によってタイタニック号の遭難以来100年以上にわたって築かれてきた「船舶通信士」の職場は商船から(一部の大型客船を省き)ほとんど消え去ってしまった。これに伴い世界に名を誇った、NTTの無線電報局として船舶との無線通信を行っていた海岸局である銚子無線局(JCS)は1996年3月31日に、また長崎無線局(JOS)は1999年1月31日に海岸局としての業務が終わり、日本の外航船舶におけるモースル通信に終わりを告げたのである。現在モールス通信はアマチュア無線、自衛隊など一部に使われているのみである。

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小蓮華山
2013・08・12
  新潟県の最高峰 小蓮華山(大日岳)2,766m

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小蓮華山より白馬大池、後方が新潟県の妙高連山
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清峰丸 014
本船は予定通りアメリカ、ワシントン州のエバレットに入港した。いつものように入港手続き、いたって合理的、簡単だ(2-3人来るだけ)。しかし後進国は、いや税関だ、疫官だ、警察だ、軍隊だ、港長だ、代理店だ、荷主だ、などなど、適当に肩書を付けてやってくる、目的は簡単だ、、た、か、り、早速材木の積み込みが始まる(写真)

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入港2日目、ちょうど退屈していたところ、シップチャンドラー(船食)が注文した食料品、お土産品を納入に来た。シアトルまで見物に行きたいんだが車に便乗させてもらえないか頼んだところ、こころ易くOK! 話がわかるね、、ボーイさんを誘い出かけた。途中わざわざ航空機メーカーボーイング社の工場の近くを通ってくれた、工場なんて―もんじゃないんだわ、広くて、ジャンボ機が何機も見える、、さすがアメリカだな、、(^0^) 昔万国博覧会が開かれたと言う公園に行ってみた(写真)。後ろの塔はスペースニードルと言う名前だったかな?

清峰丸 009さんざんに歩き回り、腹が減ったなー、一軒のフード点に入ってみた、コーヒーとハンバーガーのような物??を頼んで食べた、写真を撮ろうとすると近ずいて来て一緒に映ろうとする彼女、、まー、可愛い彼女だったんで一緒に撮ったよ(写真)今ならシアトルマリナーズのイチロウの応援にでも行ったろうにねー、、
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運転免許証運転免許証を取得して50数年になるだろうか、途中で一度だが忙しさに紛れて免許証の更新を失念し2か月ほど知らずに車に乗っていた事があるがね、、今回で何回目の更新になるだろうか。以前は更新の案内が来て、都合の良い日に免許証の更新手続きに行けばよかったんだが、今はちょいと厄介だ、ご当地では免許証の有効期限満了の6か月前に案内が来る、通知から1か月以内に「認知機能検査」を受ける、ご当地は運転免許センターか自動車学校に予約をして受けることになる。検査の結果に応じて第一分類、第二分類、第三分類に分類され結果通知書により自動車学校に「高齢者講習」の予約をする、受講費用は結果の分類によって違い、受講科目も違う。その後に送られてくる運転免許証更新通知書と高齢者講習修了証明書を持って運転免許センターまたは警察署で更新手続きをする。仕事が休みの昨日、運転免許センターに行ってきた。運転免許センターはその場で更新手続きが完了し、新しい免許証が交付されるので県内の他の市町村から来る人もいるので結構と混み合う。雨の昨日はそれでも少なかったようだ、申請、検査などが手際よく進み1時間半ほどで新しい免許証が交付された。これからは3年ごとの更新になるが、あと何かい更新できるかね、、
休む間もなく今度は検査で病院へ向かい、終わったら今度はかかり付けのクリニックへ、、忙しい一日だったね、、、
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大分日赤病院057 健康診断







ご当地への引っ越しを速めた要因の一つであった癌の診断、、11月に引っ越して12月より検査入院、自己採血などで通院し年が変わり入院、手術で経過が良好で2月の上旬にお陰で退院することができた。その後、1年間は3か月に一度検査で通院した。そして2年目からは半年に一度の検査で通院、そして3年目からは1年に一度の検査になった。今日は7年目の検査の日だ、ちょうど仕事も休みでラッキー、、午後の1時からの予約だが採尿、採血があるが結果が出るまで1時間かかる、何回も行っているので要領はわかる、12時前に病院へ行き自動受付機で受付し処置室へ、5分くらいで呼ばれて採尿、待つこと5分、また呼ばれて今度は採血をして終わり。車を止めた立体駐車場はラジオが良く入るように最上階に駐車してある、自販機で飲み物を買い車へ、座席を倒して準備してきた山の本を読み、少し昼寝、、1時になったし、さーて行くかね!外来の待合所へ行くともう20人くらいの人が待っている、もう検査結果は出ているはずだし多分早い時間に呼ばれるだろうで、、的中、予定通り10分くらいで呼ばれて診察室へ、主治医の先生とは1年ぶりだ、〇〇さん、検査結果は合格、7年になるんでもういいでしょう!とのこと。年に何回か学会で出張の時は携帯に電話が来て空港までお供し、翌日は空港までお迎えに行っていたんだが昨年はコロナ渦で学会が中止になったとのことで、学会に行くときはまた電話するよ!との事で、この間、大腸のポリープの内視鏡手術で2回ほど1日入院しお世話になったが、取り合えず今日で当病院は最後になった。できることなら最後にしてもらいたいね、、、
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仕事中にラジオを聞いていると懐かし歌声が流れてきた、、、
近江敏郎さんの 山小舎の灯(やまごやのともしび)だ、、

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第87回観桜会(H24) 021

第87回観桜会(H24) 011
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清峰丸(小)広島で1週間ほど停泊して荷役作業も終わりアメリカ向け出港した。今航の積み地は、ワシントン州エバレットだ。今度日本に帰ればちょうど各地で桜が満開の頃か、、瀬戸内海を通り、大阪湾、友ヶ島水道、を通り太平洋にでる。海上から眺める景色は良い、外海と違ってほとんど大した時化もないだろう、名も知らない小さな島が多数見渡せる。ボートデッキのハンドレールにもたれて海を眺めていると、目まぐるしく動いている世の中が嘘のようだ。 今航、日本に帰ったら結婚のため特別休暇下船だ、今航は何事もなく行きたいね、
清峰丸(小)房総半島の南端、野島崎を過ぎると日本の島影も段々と遠ざかり、約2週間、見えるのは、海 海 海 千島列島、カムチャッカ半島の遥か沖合を航行中だ、3月とも成ると冬型もだいぶゆるみ、前航の大時化が嘘のようだ。しかし、今度はガスだ、ガスがかかり始めると一寸先が見えない、見えないと言っても、いつも見えるのは海だけだけどさ、、この海域は北米航路の沢山の船が行き交う、2台のレーダーがフル稼働だ。故障すると夜中でも起こされる、、頼む!故障しないで!!レーダーマストに付いている霧笛が鳴っている。 ボーッ! ボーッ!
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南蛮BVNGO交流館
九州7県の中では、あくまで私的な考えだが大分県と言うとあまりパッとしない県ではないだろうか、大分県の県都は?あー別府ね!と言う人もいると聞く。全国県庁所在地の人口ランキングでは19位(約478,000人)である。大分市よりも別府市、由布市湯布院町の方が有名だ、しかーしだ! 南蛮文化発祥都市、戦国の武将大友宗麟、など等を知る人は少ないだろう、大分県民でも知らない人は結構いるそうだね。

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私もご当地に引っ越すまでは大友宗麟と言う名前は恥ずかしながら全く知らなかった、(汗)
1987年、大分市史を編さんする際に、江戸時代の初めに描かれたとされる府内古図(ふないこず)を現在の地図上に当てはめた「戦国時代の府内復原想定図」が作られ、駅近くの現在の顕徳町3丁目に大友氏の館があったことが推定されました。

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1998年(平成10年)に大友氏館跡第1次の発掘調査が行われ大規模な庭園遺構が発見されたことがきっかけとなり2001年に国の史跡に指定されました。庭園は東西67m、南北30mの池があり戦国時代の大名館の中では日本最大規模と言われる。発掘調査によりその全貌が明らかとなった庭園跡は、整備を行い2020年に史跡公園として公開されている。写真は工事中の頃だ、、

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大友氏館跡は高い土塀で囲まれ、広さが1辺200mもあった、全国屈指の規模を持つ広大な屋敷跡です(写真)、発掘調査の結果、館の中央に政治や儀式を行った中心建物跡が、南東部には巨大な池を持つ庭園跡が発見されています。大友館の建設は14世紀末ころに行われたと言う。その後、館は数回の整備が行われ16世紀後半には200m四方に拡張され、大きな池を持つ庭園が造営された事がわかっています。16世紀後半は大友宗麟がキリスト教を保護し、南蛮貿易を積極的に進め、九州6ヵ国の守護に任ぜられた頃にあたります。

南蛮BVNGO交流館
この大友氏の館跡地内に2018年9月30日、南蛮BVNGO(ぶんご)交流館がオープンしました(写真)、好奇心旺盛、と言うより物好きなhamさん、さっそく行ってきましたってー、、工夫を凝らした展示や、迫力のある映像などで大友氏の遺跡や大友宗麟の功績を詳しく紹介しています。PR不足なのか興味が無いのか、日曜日にもかかわらず他に一人の見物人だけであったが、その分、学芸員であろう方から詳しく説明をしていただき、知らない事ばかりで大変勉強になりました。ぜひ市民の皆様に訪れていただき、郷土の偉人の功績を知っていただきたいもんだね。

BVNGOの表記について 
ヨーロッパ最初の日本地図であるティセラ(日本図)に九州全体をラテン語の大文字で「BVNGO」(豊後)と記されていたことに基づいています。  = 説明書を転記 =

大友宗麟についての詳細は = こちら =
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