天才音楽家 瀧 廉太郎は明治12年8月24日東京市芝区南佐久間町2丁目18番地(現港区西新橋2丁目)で父、瀧 吉弘の長男として生まれた。父が内務省に勤めていた関係でたびたび転任したので、廉太郎もしばしば学校を変えている。小学校は明治19年5月神奈川県で入学した、すぐに富山県師範学校付属小学校に転じ、ここで1年半を過ごし、明治21年5月東京の麹町小学校尋常第3学年に転入し23年3月尋常科を卒業し高等科に入学した。このころ父は大分県大分郡の郡長であったため、同年4月同校を退学し帰郷、同年5月大分県師範学校付属小学校高等科第1学年に転入学した。そして24年父が大分県直入郡群長に転じたため家族と共に竹田の町(現竹田市)に移り、25年1月直入郡高等小学校第2学年に転入した。そして多感な少年期をここで過ごしたのである。そして明治27年4月竹田小学校(現竹田市立岡本小学校)を卒業した。ここでの2年余りの生活が廉太郎の音楽志望へ大きな影響を与えたと言われている。同年9月に東京音楽学校に入学、(hamさんの郷里の新潟県上越市大潟区出身)をはじめ、多くの先生、先輩の庇護のもとで勉学に励んだ。明治29年12月12日廉太郎は学友会の音楽会に初演奏をしている、曲目はラインベルゲル作のバラードと言われている。彼の署名入りの写譜が見つかり、それに 明治二十九年十二月十二日音楽学校学友会二於テ此曲ヲ独奏ス、是レヲ予ノ独奏ノ初メトス。時専修部二年生 瀧廉太郎記 とある。この演奏で彼の実力がおおいに認められ称賛された。
また廉太郎は美しいテノールの声を持っていて、学友会の音楽会に重唱や合唱にたびたび出演している、また管弦楽でクラリネットを吹いていたと言う。専修部2年の頃から演奏だけでなく、作曲、作詞の方にも頭角を表し、明治30年2月「砧」作詞、3月「日本男児」作曲、7月「春の海」、8月「散歩」作曲、12月「枯野の夕景」作詞、31年7月専修部を優等で卒業、9月研究科に入学した。32年9月音楽学校の嘱託になって後輩の指導に当たる事になり、留学に出発するまでの2年間を熱心に指導した。この間に作詞、作曲した物が現在一番多く残っている。33年10月1日ピアノ曲「メヌエット」、11月1日組歌「四季」、そして「幼稚園唱歌」の編纂をはじめ「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」もこの頃の作品である。
明治33年6月付けで日本の音楽家としては二人目となるドイツへの留学が発令されたが、出発を延期し34年4月6日横浜港をドイツ船ケーニヒルアルベルト号で出帆した。42日におよぶ長い航海を終え5月18日にベルリンに到着、ここで巌谷小波(いわやこなみ)と再会した、そして3週間滞在、見物し6月7日ライプチヒに着いた。10月1日音楽学校(設立者メンデルスゾーン)のコンセルヴァトリウムの試験に合格、翌日より学生となり授業を受けた。冬の訪れに廉太郎はその寒さで風邪をひき、ついに全快することなく、翌35年8月下旬に帰国する事になった。途中、ロンドンのテームズ河畔のチルベリイドックで「荒城の月」の作詞者 土井晩翠(どいばんすい)と、最初にして最後の劇的な会見をし、10月17日横浜港に入港し、東京市麹町上2番町22番地の瀧 大吉の家に落ち着いた、しかしはからずも11月23日、最大の理解者である従兄の瀧 大吉が脳溢血で他界したため、葉山での転地療養を諦め、病を心配して葬儀にも参列せずに24日に東京を出発し大分の父母の許へ帰った。その頃、父は官職を去り、大分県大分市稲荷町339番地(現府内町)で悠々自適な生活を送っていた。廉太郎はここで療養につとめながら「荒磯」をはじめ多くの作品を書いたと思われます。しかし肺結核を患っていた廉太郎は明治36年(1903)6月29日午後五時23歳の若さでこの世を去った。結核に冒されていたことから死後、多数の作品が焼却されたと言う。瀧家の墓所は日出町の龍泉寺にあるが(瀧家は江戸時代日出藩の家老職を務めた上級武士の家柄である)廉太郎は父と親交のあった大分市金池町の万寿寺に葬られている。(写真は「荒城の月」の舞台となった竹田市の岡城に建つ滝廉太郎の銅像)。 = 一部案内板より抜粋 =
★ 廉太郎の墓は親族のご意向で2011年に瀧家の墓所の日出町の龍泉寺に移されました。
また廉太郎は美しいテノールの声を持っていて、学友会の音楽会に重唱や合唱にたびたび出演している、また管弦楽でクラリネットを吹いていたと言う。専修部2年の頃から演奏だけでなく、作曲、作詞の方にも頭角を表し、明治30年2月「砧」作詞、3月「日本男児」作曲、7月「春の海」、8月「散歩」作曲、12月「枯野の夕景」作詞、31年7月専修部を優等で卒業、9月研究科に入学した。32年9月音楽学校の嘱託になって後輩の指導に当たる事になり、留学に出発するまでの2年間を熱心に指導した。この間に作詞、作曲した物が現在一番多く残っている。33年10月1日ピアノ曲「メヌエット」、11月1日組歌「四季」、そして「幼稚園唱歌」の編纂をはじめ「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」もこの頃の作品である。
明治33年6月付けで日本の音楽家としては二人目となるドイツへの留学が発令されたが、出発を延期し34年4月6日横浜港をドイツ船ケーニヒルアルベルト号で出帆した。42日におよぶ長い航海を終え5月18日にベルリンに到着、ここで巌谷小波(いわやこなみ)と再会した、そして3週間滞在、見物し6月7日ライプチヒに着いた。10月1日音楽学校(設立者メンデルスゾーン)のコンセルヴァトリウムの試験に合格、翌日より学生となり授業を受けた。冬の訪れに廉太郎はその寒さで風邪をひき、ついに全快することなく、翌35年8月下旬に帰国する事になった。途中、ロンドンのテームズ河畔のチルベリイドックで「荒城の月」の作詞者 土井晩翠(どいばんすい)と、最初にして最後の劇的な会見をし、10月17日横浜港に入港し、東京市麹町上2番町22番地の瀧 大吉の家に落ち着いた、しかしはからずも11月23日、最大の理解者である従兄の瀧 大吉が脳溢血で他界したため、葉山での転地療養を諦め、病を心配して葬儀にも参列せずに24日に東京を出発し大分の父母の許へ帰った。その頃、父は官職を去り、大分県大分市稲荷町339番地(現府内町)で悠々自適な生活を送っていた。廉太郎はここで療養につとめながら「荒磯」をはじめ多くの作品を書いたと思われます。しかし肺結核を患っていた廉太郎は明治36年(1903)6月29日午後五時23歳の若さでこの世を去った。結核に冒されていたことから死後、多数の作品が焼却されたと言う。瀧家の墓所は日出町の龍泉寺にあるが(瀧家は江戸時代日出藩の家老職を務めた上級武士の家柄である)廉太郎は父と親交のあった大分市金池町の万寿寺に葬られている。(写真は「荒城の月」の舞台となった竹田市の岡城に建つ滝廉太郎の銅像)。 = 一部案内板より抜粋 =
★ 廉太郎の墓は親族のご意向で2011年に瀧家の墓所の日出町の龍泉寺に移されました。